成功する人
5月6日、34年ぶりに東京ドームで開催されたボクシングの世界戦で、
世界4団体スーパーバンタム級統一王者の井上尚弥選手が、元2階級制覇王者の
ルイス・ネリ選手を逆転KOで下し、4団体の王座防衛に成功しました。
井上選手が1回にキャリア初のダウンを喫するというサプライズがありましたが、
終わってみれば井上選手の快勝でした。
井上選手の強さには、本当に痺れますね。今回の井上ファイトマネーは、総額10
億円になるのではないかと言われています。井上選手、全てがすごいですね!
さて、長かったゴールデンウィークも漸く終わりました。
皆さんは、どのようなGWを過ごされたでしょうか?
中には10連休だった人もいたでしょう。
私は会社で、普段できていない書類整理などをしていましたが、
そんな時、ふと見つけた古い雑誌の記事に目がとまりました。
そんな時、ふと見つけた古い雑誌の記事に目がとまりました。
面白かったので、記事を一部抜粋してご紹介いたします。
~以下、記事抜粋 ~
『なぜ成功する人としない人がいるのか』
道元禅師と弟子の会話
ある時、弟子が師の道元に聞いた。
「人間は皆仏性を持って生まれていると教えられたが、仏性を持っている
「人間は皆仏性を持って生まれていると教えられたが、仏性を持っている
はずの人間になぜ成功する人としない人がいるのですか」
「教えてもよいが、一度自分でよく考えなさい」
道元の答えに、弟子は一晩考えたが、よく分からない。
翌朝、弟子は師を訪ね、ふたたび聞いた。
「 昨晩考えましたが、やはり分かりません。教えてください」
「それなら教えてやろう。成功する人は努力する。
「教えてもよいが、一度自分でよく考えなさい」
道元の答えに、弟子は一晩考えたが、よく分からない。
翌朝、弟子は師を訪ね、ふたたび聞いた。
「 昨晩考えましたが、やはり分かりません。教えてください」
「それなら教えてやろう。成功する人は努力する。
成功しない人は努力しない。その差だ」
弟子は、ああ、そうか、と大喜びした。
だがその晩、疑問が湧いた。
仏性を持っている人間に、どうして努力する人、しない人が出てくるのだろうか。
翌日、弟子はまた師の前に出て聞いた。
「昨日は分かったつもりになって帰りましたが、仏性を有する人間に、どうして
弟子は、ああ、そうか、と大喜びした。
だがその晩、疑問が湧いた。
仏性を持っている人間に、どうして努力する人、しない人が出てくるのだろうか。
翌日、弟子はまた師の前に出て聞いた。
「昨日は分かったつもりになって帰りましたが、仏性を有する人間に、どうして
努力する人、しない人がいるのでしょうか」
「努力する人間には志がある。しない人間には志がない。その差だ」
道元の答えに弟子は大いに肯き、欣喜雀躍家路につく。
しかしその晩、またまた疑問が湧いた。
仏性のある人間に、どうして志がある人とない人が生じるのか。
弟子は四度師の前に出て、そのことを問うた。道元は言う。
「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。
志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ」
道元の逸話である。
この逸話を彷彿とさせる道元の言葉が、
『正法眼蔵随聞記』にある。
「道を得ることは、根の利鈍にはよらず、人々皆、法を悟るべきなり。
精進と懈怠とによりて、得道の遅速あり。
「努力する人間には志がある。しない人間には志がない。その差だ」
道元の答えに弟子は大いに肯き、欣喜雀躍家路につく。
しかしその晩、またまた疑問が湧いた。
仏性のある人間に、どうして志がある人とない人が生じるのか。
弟子は四度師の前に出て、そのことを問うた。道元は言う。
「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。
志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ」
道元の逸話である。
この逸話を彷彿とさせる道元の言葉が、
『正法眼蔵随聞記』にある。
「道を得ることは、根の利鈍にはよらず、人々皆、法を悟るべきなり。
精進と懈怠とによりて、得道の遅速あり。
進怠の不同は、志の至ると至らざるとなり。
志の至らざることは、無常を思わざる故なり。
念々に死去す。畢竟じて且くも留まらず。
暫く存ぜる間、時光を空しくすごすことなかれ」
(道を得るかどうかは生まれつきの利発さや
愚かさによるものではない。
修行する人は皆必ず悟りに達することができる。
ただ一所懸命になって精進する人と、怠けてやる人との間には
暫く存ぜる間、時光を空しくすごすことなかれ」
(道を得るかどうかは生まれつきの利発さや
愚かさによるものではない。
修行する人は皆必ず悟りに達することができる。
ただ一所懸命になって精進する人と、怠けてやる人との間には
当然早い遅いの差が生じる。
精進するか怠けるかは、志が切実かどうかの違いによる。
志が切実でないのは、無常を思わないからだ。人は刻々と死につつある。
こうして生きている時間を大切にして、自分を磨いていかなければならない)
切に生きるとは、ひたすらに生きるということである。
いまここの一瞬一瞬をひたむきに生きるということである。
小我を忘れ、何かに懸命に打ち込むことである。
その時、生は本然の輝きを放つ。
(『致知』より抜粋)
志が切実でないのは、無常を思わないからだ。人は刻々と死につつある。
こうして生きている時間を大切にして、自分を磨いていかなければならない)
切に生きるとは、ひたすらに生きるということである。
いまここの一瞬一瞬をひたむきに生きるということである。
小我を忘れ、何かに懸命に打ち込むことである。
その時、生は本然の輝きを放つ。
(『致知』より抜粋)